ドイツ暮らし保育士お母さんの気づき

ドイツで暮らしている2人の男の子のお母さん&保育士です。海外生活で起こる(かもしれない)ことや親子の会話をサクッと読める記事にしています。育児や保育に関すること、趣味の日本語研究と人間観察なども...

大嫌いな人に「自分のことを心配してほしい」と言われたとき

こんにちは。だいみにです。

今日は不自然な日本語について書きます。

大嫌いな人に「自分のことを(私に)心配してほしい」と言われたことがあります。
瞬間的にえっ。ムリだな。と思いました。
なぜなら私はその人が心配だと思わないからです。

心配というのは自然に沸いてくる感情であり、人に要求されてどうにかできるものではありません。 

しかし心配でなくても、心配しているふりはできます。ふりは自然に沸いてくる感情ではなく演技ですから。

ということは正しくは「心配しているふりをしてほしい」と言うべきです。でも本当にそんな心のこもっていない偽善を求める意味があるんでしょうか。

もしかしてその人は恐ろしく鈍感で、私がその人を心配するに違いないと勘違いしているのでしょうか。

 

そういう私も実は「心配してほしかった」ことがありました。

結果的には「心配しているふりでもいいからしてほしかった」というほうが正しいです。心のこもっていない偽善なんかを求めていたのかと思うと情けないですが...。

あれはまだ新婚の頃。今から20年以上も前のことです。

私の主人は当時の典型的な日本のサラリーマン。会社人間で、飲みに関しては率先して幹事になるタイプです。

ある日、いつものように飲みに行っている主人に「手を骨折したから早く帰ってきてほしい」と電話をしました。(当時はまだメールではなく電話が主流でした)
主人に「心配してほしかった」のです。

でも結局帰って来たのは3時間後。
「どうして早く帰って来てくれなかったの? 心配じゃなかったの?」との私の問いに、主人は「メンバーが揃うまで抜けられなかった。もう折れちゃったんだからしょうがないじゃん。」
そうです。心配するかどうか決めるのは主人なわけで、私ではなかったんです。

無念にも願い叶わず撃沈。
会社第一主義である上、主人は子供のころ何度も骨折の経験があったので、私の手の骨折は心配に値しなかったようです。

私は主人が私を心配するに違いないと勘違いしていたのです。期待していたというべきなのかもしれません。

そこで気づきました。
「自分のことを心配してほしい」と相手に求めるのはおかしなことなんです。
かといって「自分のことを心配しているふりをしてほしい」と求めるのもやっぱり変ですよね...

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